2018年4月5日木曜日


     公開講演会のご案内

次のとおり、公開講演会を開催します。
「ラフカディオ・ハーンの神戸と日本」
・とき・ところ:2018.4.24(火)10001200(於:神戸市シルバーカレッジ)
・申込:神戸市シルバーカレッジ事務局
 電話:078-743-8100 FAX078-743-8103
 http://www.shiawasenomura.org/infolist/2348

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」
とき・ところ:2018.5.19(土)14001530(於:神戸海洋博物館ホール)
申込:NPO法人近畿みなとの達人
  電話0788914561  FAX078-891-4550


私の神戸近現代史案内(通算603回) 
「ラフカディオ・ハーンの神戸」(1

ブログ再開

◆ブログ連載再開  「神戸近現代史案内」のブログ掲載は、2017227日を最後に中断していた。続けて読んでくださっていた方には申し訳ないと思いつつも、時間が取りにくくなっていたことを理由にブログにアップしなかった筆者の怠慢を反省している。
◆行政情報紙『セルポート』  この連載は、筆者が行政情報紙『セルポート』(月3回発行、兵庫県・神戸市幹部等対象)に、1999121日号から毎号連載してきた記事を、同紙読者以外にも広く読んでいただきたいと思い、2013126日からブログにアップしてきたものである。
◆海外移住基地神戸  もともと『セルポート』に連載を始めた目的は、筆者たちが市民運動で推進していた「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためである。
かつて神戸はわが国を代表する海外移住基地であった。明治41428日に第1回ブラジル移民船・笠戸丸が神戸を出航し、昭和33月には我が国初の移住者支援施設である国立神戸移民収容所が開所した。石川達三は、昭和5年に移民収容所を経由して神戸港から大阪商船の移民船らぷらた丸でブラジルに渡航し、その体験をもとにした小説「蒼氓」で、昭和10年に第1回芥川賞を受賞した。
移民収容所は、その後、神戸移住教養所、大東亜要員錬成所と改称し、戦後は、昭和27年の海外移住事業再開に伴い神戸海外移住斡旋所として再開し、その後、神戸海外移住センターと名を変え、昭和46年にその使命を終えた。平成7年の阪神淡路大震災ではこの建物は被害を受けなかった。
◆神戸海外移住者顕彰事業  筆者は、昭和30年代後半に、神戸港第4突堤から出港する移民船の盛大な見送り風景を見て感激したことがある。
筆者は、1999年から、神戸の海外移住の歴史を後世に残したいと考えて、知人たちと共に「神戸海外移住者顕彰事業実行委員会」を立ち上げ、市民運動を展開した。運動等を始めると思いがけない意外な事実に遭遇した。それは、当時の神戸では「移民は暗い。移住者の家族は身内に移住者がいることを知られたくない。暗いイメージは神戸にそぐわない」との空気が蔓延していたことである。
それでも、四面楚歌、徒手空拳で始めたこの運動は、ブラジルをはじめとする海外日系人の共感を呼び、世界中から寄せられた浄財で、2001年にメリケンパークに海外移住者像を建立した。
旧移民収容所は、神戸市が「海外移住と文化の交流センター」として整備して生れ変わった。センターと移住記念碑を結ぶ「移住坂」を歩く観光客も増えた。海外移住3点セットは神戸の観光施設として定着し、神戸が海外日系人の心の故郷になっている。
神戸発世界行の移住者を称えるこの市民運動の記録については、拙著『移住坂~神戸海外移住史案内~』セルポート、2004年)、黒田公男『日本とブラジル』神戸新聞総合出版センター、2014年)を参照されたい。
◆『セルポート』連載   タイトルを「移住坂」と名付けた『セルポート』への連載に続いて神戸近現代史の連載を続けることとした。連載タイトルは「神戸弁天浜明治天皇御用邸」「居留地百話」「明治神戸人が描いた神戸の未来構想・神戸将来の事業」「湊川神社物語」「折田年秀日記」「豪商神兵湊の魁」等である。
連載した「豪商神兵湊の魁」は、明治10年代の「絵入り神戸の商工名鑑」と位置付けられる史料の解説である。これも、大国正美・楠本利夫『明治の商店~開港・神戸のにぎわい』(神戸新聞総合出版センター、2017年)として出版した。また「明治天皇御用邸」と「神戸将来の事業」は、全面的に書き換えて、楠本利夫『増補 国際都市神戸の系譜』(公人の友社、2007年)に収録した。
◆ラフカディオ・ハーンの神戸  20171121号から『セルポート』に「ラフカディオ・ハーンの神戸」の連載を開始した。ところが、20183月末に『セルポート』が突然終刊することになり、連載を継続できなくなったので、このブログで連載することにした。
◆引用  筆者は大学で学生に期末レポートを提出させることが多い。中には、ネットから引用してそのままレポートを完成させ、文章、画像等の引用元を明記していない学生も少なくない。筆者は、読者がこのブログから引用してくださることは歓迎する。ただし、引用する場合は、このURLとタイトル、著者名を必ず明記していただきたい。

      市民運動で建立した海外移住者像(メリケンパーク)
 完成(2001年)直後の写真。アプローチの敷石はかつて移住者が移民船に乗るときに歩いた新港ふ頭の敷石。向かって右手:建立の系譜と寄贈者名。銅像の彫刻は菊川晋久作、「希望の船出」の揮毫は笹山幸俊元神戸市長。



2017年2月27日月曜日

神戸今昔物語 『豪商神兵湊の魁』諏訪山物語



 ◆神戸英和女学校  「神戸又新日報」(明治1927日号)に「英和女学校の移転」と題し、次のような記事がある。

諏訪山下の神戸英和女学校(後、神戸女学院)は、創立以来10数年が経過し、現在、移転を検討している。もともと、閑静な土地を求めてここに学校を設立したが、その後、周囲が開け、諏訪山山麓に料理屋が建ち並び、学校裏手にまで料亭が迫ってきた。昨今は「絲竹管弦、絶えず同校に聞こゆる」ことになり「生徒の勉学上に関係を及ぼすこと少なからず」。地方出身の寄宿生も多いという同校は、女子の「教育に適当すべき閑静なる土地」を探し「速やかに移転せん」としている。

神戸英和女学校は、明治8年に、米国人女性宣教師ダッドレーとタルカットが、三田藩最後の藩主九鬼隆義の支援を得て、現山本通4丁目に学校を開いた。現在、その場所には神港高校がある。明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称し、昭和8年、岡田山へ移転した。岡田山移転に先立ち、英和女学校は明石大蔵谷の丘陵地に広大な土地を購入し、米国人建築家に委託して立派なキャンパス計画が出来上がっていた。けれども、結局、明石大蔵谷キャンパスは実現しなかった。

◆諏訪山  諏訪山はもともと中宮、花隈、宇治野、北野、二つ茶屋村の共有地であった。明治の初め、英国人が諏訪山の麓で鉱泉を発見した。1871(明治4)年頃、小野組が諏訪山を購入した。小野組はこのとき兵庫県の公金取扱機関であった。その後、小野組が破産したため諏訪山は官有地となった。

明治6年、兵庫県が諏訪神社境内3000坪を公園に指定した。

県官関戸由義は、花隈で料亭常盤花壇を経営していた前田又吉に諏訪山の土地を貸与した。又吉は、九鬼隆義から資金援助を受け、明治6年に温泉を開き、常盤花壇を諏訪山に移した。

九鬼が総裁を務める志摩三商会は、副社長小寺泰次郎の天才的手腕で、加納宗七が造成した旧生田川付替え跡地の土地取引等により巨利を得ていたので、開発資金を貸し付ける余裕は十分あった。

「神戸の料亭王」と呼ばれた又吉は、後に京都に進出し常盤ホテルを建設する。常盤ホテルは、明治245月に、ロシア帝国ニコライ皇太子の宿舎となる。ニコライは、59日大艦隊を率いて神戸に到着し、諏訪山金星台から神戸の眺望を楽しんだ。その後、鉄道で京都へ行き、12日、人力車を連ねて大津へ行き、琵琶湖遊覧を終えて、京都への帰途、警備の警官にサーベルで切り付けられ額に負傷した。日本政府を震撼させた大津事件である。

◆料亭群  カットは、西から常盤楼、福常盤、西川亭、山本、吉田、藤見亭、常盤中店、平谷、藤井亭、春海楼、青梅楼、中村亭、月の家、自在庵、長生亭、常盤東店である。山全体に料亭が建ち並んでいる。
 
諏訪山遠望(『豪商神兵湊の魁』)
 
 

神戸今昔物語 『豪商神兵湊の魁』諏訪山金星台


『豪商神兵 港の魁』(38諏訪山 金星台のネーミング

 

◆金星台  明治7511日、神戸京都間の鉄道が開通した。129日、フランス観測隊が金星の太陽面通過を諏訪山で観測した。その場所は現在、金星台と呼ばれ、金星観測記念碑がある。記念碑にフランス観測隊隊長ピエール・ジャンセン(Pierre J. C. Janssen)、ド・ラクロア(De Lacroix)とともに名前が刻まれている清水誠は日本のマッチ工業の創始者である。実は、フランス隊の隊長ジャンセンは、7日は本隊を置いていた長崎にいた。神戸で金星を観測したのはドラクロワと清水である。

明治36年、神戸市は大阪で開催された内国勧業博覧会に協賛して標高180㍍の場所を切り開いて展望台とした。

◆ネーミング  金星の太陽面通過は非常に珍しい天文現象である。当時の金星太陽面通過観測の学術的意味は、地球から太陽までの距離が計算できることであった。アメリカ、フランス、メキシコは日本に観測隊を送り込んだ。前年に米国駐日公使から金星観測の依頼文書を受け取った明治政府は外国側の意図がわからず困惑したという。

メキシコ観測隊は横浜、フランス隊は神戸と長崎、アメリカ隊は長崎でそれぞれ観測した。

このとき、観測した場所を金星台と名付けているのは神戸だけである。このネーミングは素晴らしい。金星台と名付けることによって、この場所で金星を観測したことが永遠に後世の人たちに伝わるからである。

1982年、諏訪山にビーナスブリッジが作られた。この橋の名も金星台から来ている。もし、金星台と名付けられていなかったらビーナスブリッジの愛称もない。ビーナス(Venus)とは「春、開花、花園の女神、金星、美女」である。金星台と山頂の展望台を結ぶ全長約90メートルのこのループ橋は、いかにも神戸らしい夜景眺望スポットである。

◆ポートアイランド  神戸の先人たちのネーミングは秀逸である。

昭和39522日号の神戸新聞に「神戸に全国初の自由港区を 600億円でポートアイランド建設 原口市長が新構想」の見出しの記事がある。神戸港の防波堤沖に人工島を建設し自由港区にするという構想である。

当時、全国で海面埋め立てが進められていた。.埋立地の名称は判で押したように「××工区」「××地先」「××無番地」であり、製造業、物流基地、下水処理場、清掃工場等が立地していた。埋立地は、とても一般市民が近づける場所ではなかった。神戸ではポートアイランドという名前を付けたことが、この海上都市の性格を決定づけた。住み働き憩うという都市の機能が海上都市に導入されたのである。ポートアイランド我が国における海上都市の新局面を開いたことは間違いない。

企業が新製品を発売するときにこだわるのはネーミングである。行政関係者も先人たちのネーミングをぜひ見習ってほしい。
 
 
諏訪山における観測風景

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出典:斎藤秀樹「天文史跡巡り」『天文教育』20143月号
 
 

2017年2月3日金曜日

神戸今昔物語 『豪商 神兵 湊の魁』に見る神戸開港効果(2016.7.21号から2017.2.1号まで一括掲載)


神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(18)「外国亭、布引瀧水麦酒」

 ◆開港効果  「もはや戦後ではない」、昭和31年に刊行された経済白書の名言である。「10年ひと昔」という言葉がある。10年という歳月は世の中を変えるのに十分な期間なのである。

『豪商神兵 湊の魁』(明治15年)の刊行は、神戸開港(1868.1.1)から15年後である。同書から開港が神戸をどう変えたのかが伝わってくる。

◆外国亭  北長狭通6丁目に「外国亭」という西洋レストランがあった(カット)。2階建の立派なレストランである。「外国亭」の旗が翻っている。建物のすぐ隣を蒸気機関車が煙を吐いて通り過ぎようとしている。踏切や、道路上で通行人が汽車を眺めている。服装は和服が圧倒的に多く、洋服の人はごく少数である。鹿鳴館の舞踏会に行くような洋装の婦人が、入り口の階段を上りかけている。店内では洋風の食事を楽しむ人たちの姿が見える。路上には、3台の人力車と、天秤棒で荷物を運ぶ人が2人いる。

『魁』のカットに、「西洋料理 洋酒 同種物 同菓子」とある。外国亭では、西洋料理と洋酒、洋風のスイーツとデザートを楽しむことができたのである。「種物」は、辞書に「氷水に、シロップ・アズキなどを入れたもの」とある。食後の「デザート」である。

外国亭は神戸京都間の官営鉄道の線路沿いにあった。阪神間の立つ同派、明治7年の神戸大阪間開通に続き、明治10年には神戸京都間が開通した。25日の開通式には天皇の臨御もと、米国領事、兵庫県知事らが祝辞を述べた。10日後、鹿児島で西郷隆盛が挙兵した。政府は、弁天浜の専崎弥五平邸に兵站本部を置いた。鉄道は、北陸、東海方面からの兵員、物資輸送に使われた。式典後東京へ帰る予定であった天皇は、戦局の見通しがつく728日まで京都御所に留まられた。

◆パンビール製造所  西洋料理を楽しむにはアルコール飲料がなくてはならない。

下山手通3丁目に方 常吉の「パンビール製造所」があった。パンとビールは製造工程に共通するものがあり、古代エジプトでは、「ビールは、よくパンの製造所で作られていた」(植田敏郎『ビールのすべて』)。

元町通1丁目には、大島兵太郎の「布引瀧水麦酒醸造元」がある(カット)。「瀧水麦酒」の名前がいい。

この店には「貿易商 石炭賣捌所」の看板もかかっている。道路沿いに大きな用水桶が見える。店の前には人力車が2台、和装の男女の姿と、編み笠をかぶり背中に荷物を負った旅人らしい人や、辮髪・中国服の中国人もいる。西国街道上の元町は、外国人と日本人が混住できる「雑居地」でもあった。

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(20)「洋服、靴、散髪」

◆断髪、洋装    明治政府は文明開化政策を進めた。明治489日、「散髪、脱刀の自由」が太政官布告で認められた。明治631日、天皇が髷を落とした。国民は徐々に散髪するようになった。

明治411月。岩倉具視は遣欧米使節団を率いて横浜を出発したとき、髷を結っていた。最初の訪問国米国で、髷が好奇心の対象になったため、岩倉はシカゴで髷を落とした。

島津忠義は、明治22年の大日本帝国憲法発布式典に髷を結ったまま出席した。

 明治511月太政官布告で「礼服には洋服を採用する」ことが定められた。以後、警察官、鉄道員、郵便配達夫、教員の服装が洋服になった。

◆神戸の断髪、洋装  神戸区での断髪と洋服普及のいきさつは次のとおりである(『神戸市史』大正13年)。

初代兵庫県知事伊藤博文は、率先して洋服を着用し髷を落とした。伊藤を「坊主奉行」と陰口をたたく人もいた。

明治2年、兵庫の名士神田(こうだ)兵右衛門(後、初代市会議長)と藤田積中(言論人)は、「県当局の依頼により、市民勧誘の為、洋服着用のまま市中を逍遥し、且つ撮影せり」。洋服着用のモデルである。

神田兵右衛門は断髪を嫌がっていた。兵庫県令神田孝平から断髪についての「切なる勧告」を受けた兵右衛門は、「意を決し」て「兵庫区内の要職に在る者」約40人とともに揃って散髪することとした。ところが、実際に断髪会場に理髪師3人を招き、皆で散髪しようとしたとき、参加者の大半はこっそり退出してしまい、会場に残ったのは9人だけであった。

日本人が着用していた洋服の多くは、西洋人の古着を仕立て直したものであった。古着を輸入して売りさばく西洋人もいた。洋服を着用すれば靴を履くことになる。

『豪商神兵湊の魁』(明治15年)に、神戸区の洋服仕立、靴製造、散髪業が紹介されている。

◆洋服仕立業  元町通4丁目:洋服仕立所・西田荘太郎、5丁目:洋服仕立所・武蔵屋祐五郎、長狭通4丁目:洋服仕立所・三河屋の3軒があった。兵庫にはない。

◆靴製造業  元町通4丁目:靴製造所・須藤保義、長狭通5丁目:靴製造所・伊勢勝の2軒があった。兵庫にはない。

カットの靴製造所では、門前に腰かけて靴を採寸させる外国人と、店内で靴を製造する職員の姿が生き生きと描かれている。

◆散髪所  髷を切った頭は散切り(ざんぎり)頭と呼ばれ、ざれ歌が流行った。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」。

散髪所、散髪床は、神戸に5軒、兵庫に4軒あった。

神戸は、元町通5丁目:散髪床・内山菊松、栄町通2丁目:散髪業・木戸友造、同3丁目:散髪業・佐藤留吉、同3丁目:散髪業・とこ友、海岸通5丁目:散髪所・阪本藤吉である。

兵庫には、 西出町:散髪床・永田岩吉、鍛治屋町:散髪・ 安井藤九郎、湊町:散髪床・山田亀吉、切戸町:散髪床・男谷一太郎があった。

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(21)「第一回県議会での洋服着用者」

◆写真館  神戸と兵庫で、洋服、靴、断髪が徐々に広まっていった。

断髪して洋服を着用し靴を履けば、記念撮影をすることになる。元町通2丁目の市田写真館は豪壮な洋館であった。

当時、写真を撮るときは、首押え器で首を固定し、約30秒以上同じ姿勢をしていなければならなかった。

 開港した神戸に、ビジネスチャンスを求めて国内各地から人々が流入してきた。出身地が異なる新住民は、他人の目を気にすることなく、欧米人の生活様式をすんなり吸収した。神戸の人は、取った写真を人に見せて喜んでいた。兵庫の人は、写真を撮られたら「魂が吸い取られる」として撮影を嫌がった。

◆兵庫の旦那衆   兵庫では、時間がゆっくりと流れていた。兵庫津は、幕末、西国街道の拠点、北前船の寄港地として繁栄していたので、新住民が流入する余地はなかった。

兵庫には旧家、資産家の「旦那衆」がいた。旦那衆は「公共的義務がある者」として、人々から信用されており、自らもそう信じていた(『神戸開港三十年史』)。ノブレス・オブリージュである。

洋服、靴、断髪も、知事から要請を受けた旦那衆が率先垂範して広めていった。

◆第1回県会  神戸区における洋装の普及は議員、公務員、教員から始まった(上掲『三十年史』)。

 明治12年、第1回兵庫県会が開かれた。神戸区選出議員は神田兵右衛門と藤田積中だけであり、2人は洋装していた。議員たちは初めて見る洋装姿の「両名に最も視線を注射し洋服議員として其の名を記憶」した。

明治15年、議員全員が洋服を着用して議席につくことを議員一同で申し合わせた。

明治16年、兵庫戸場町役場では、吏員の服装を「羽織袴」で統一することが決まった。洋服採用の意見は出されなかった。

明治18年、神戸税関吏に靴が義務付けられた。それまで税関吏は制服の下に草鞋を履いていた。

明治194月、小学校教員の洋服着用が義務付けられた。教員の洋服新調負担を軽減するため、各校は洋服代金を「月賦返済」する仕組みを作った。

◆知事の夜会  明治19113日、兵庫県知事・内海忠勝夫妻が兵庫県会議事堂で「天長節夜会」を開催した。神戸初の洋式大舞踏会である。東京では、井上馨外相が、鹿鳴館で舞踏会を展開していた。西日本の国際拠点神戸で、内海が同郷の井上に呼応して、洋式舞踏会を主催したのである。

外国人は神戸で初めての本格的夜会を歓迎した。

日本人名士は悩んだ。ドレスコード(服装規定)で、燕尾服着用、ネクタイ、白手袋着用が義務付けられていたからである。仕立屋、洋品小物屋、靴屋、写真屋、散髪屋は思わぬ特需に喜んだ。

 外国人100人、日本人200人に招待状が送られた。外国人は全員出席と返事した。日本人は約半数が出席と返事した。当日、急に欠席した人もいた。ダンスも英語もできない紳士たちには、洋式の夜会は苦痛であった。 

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(22)観光名所 

◆「商取引と遊覧」  『豪商 神兵 湊の魁』(明治15年)の刊行目的は「商取引と遊覧の利便」である。

「商取引の利便」は一定の成果を上げている。『魁』は、神戸区の貿易業、船宿、船客・荷物取扱会所、呉服業、洋品店、洋服仕立業、靴製造業、パン・ビール製造業、料亭、造船所、米商会所、穀物取引所、散髪業、大工、左官業、代言人等の事業者約564を網羅していることと、当時、神戸区には商工名鑑はなかったからである。ちなみに『魁』所載事業者のうち、現在も存在しているのは「芳香堂」(元町3丁目)だけである。

『魁』から特定の事業者を検索することは容易ではない。目次もページも索引もなく、事業者配列にもルールがないからである。検索は、最初から根気強く、順番にページを繰って探すしか方法はない。

観光名所  「遊覧の利便」では、神戸区内の観光名所15がそれぞれスケッチ付きで紹介されている。地図はない。名所の配列も事業者の配列と同様にランダムであり、検索は最初のページから順番に繰っていくしか方法はない。

『魁』では観光名所と事業者が混在して掲載されている。観光名所だけを掲載順に抜き出すと、神戸海岸通之図(外国人居留地)、兵庫県庁、兵庫県下神戸停車場、神戸布引雌滝、神戸生田神社之図、神戸楠公社之図、諏訪山温泉常盤楼、湊川堤防となる。

ページを半分ほど繰ったところで、突然「湊川以西」の表示があり、事業者と並んで、兵庫和田神社、八幡宮之図、摂津長田神社、兵庫清盛塚、兵庫和田岬燈明台之図、兵庫築嶋寺、兵庫新川住吉社が載っている。「湊川以西」表示はあるが「以東」の表示はない。また、観光名所ではないが、集客施設となりうる兵庫新川米商会所、南浜魚市場も掲載されている。

現在、湊川と和田岬は、観光名所ではない。また、かつて、多くの料亭が並んでいた諏訪山には、料亭は一軒もない。

◆湊川堤防  神戸区は湊川により南北に分断されていた。湊川は川床6㍍超の天井川で、堤防の松並木で知られる景勝地であった。

 明治10128日、天皇が高尾丸で神戸に到着した。25日の神戸京都間の鉄道開通式臨席のためである。

 伊藤博文の提唱で、湊川堤防に天皇の「立寄施設」として展望所「偕楽亭」を建設することになった。建設費は、神戸と兵庫の事業者が負担することになった。当時、神戸と兵庫は仲が悪く、兵庫の事業者は、神戸の事業者を、「外国人に媚を売って商売している」と侮蔑していた。羨望と嫉妬もあった。開港場神戸が発展し兵庫は停滞していた。元初代県知事の伊藤の狙いは、犬猿の仲の神戸と兵庫を融和させることであった。

結局、天皇は湊川堤防には立ち寄らなかった。天皇の名代として、伊藤が偕楽亭を訪問し、扁額に「偕楽亭」と揮毫した。「両港人民相会して歓唔せり。是、実に開港以来空前の会合と為すなり」(『神戸開港三十年史』)。

 明治34年、湊川は付け替えられた。歓楽地「新開地」は堤防跡地である。

 

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(23)和田岬 

◆和田岬  神戸に長く住んでいる人でも、和田岬が神戸を代表する観光地であったことを知る人は少ない。

和田岬は、大阪湾を展望できる観光名所であり、『魁』所載の観光名所15のひとつにもランクされている。カットの絵葉書と『魁』のスケッチでは、和田岬の砲台、灯台、大阪湾に浮かぶ帆かけ船が見える。和田神社も岬付近の海沿いにあった。

◆「和楽園」と水族館  明治22年、岬の背後に遊園地「和楽園」が開園した。明治28年、神戸市は京都で開催された第4回内国勧業博覧会協賛事業として「和田岬水族放養場」(水族館)を開設した。博覧会終了後、水族館は和楽園を経営する会社に払い下げられた。明治35年、それまで海岸沿いにあった和田神社の現在地へ移転が完了した。

風光明媚な和田岬は、海上交通の難所であり、大阪湾防衛の要衝でもあったので、古来、シーボルト、尼崎藩主・青山幸利、徳川家茂、徳川慶喜、勝海舟、与謝蕪村、福沢諭吉等、政府要人、政治家、文人墨客等が岬を訪れている。 

◆和田岬7つの顔  和田岬には7つの顔があった。歴史の舞台、海上交通の難所、摂海防衛の拠点、外国人居留地予定地、観光名所、コレラ上陸阻止拠点、殖産興業拠点としての顔である。

◆遠矢浜 和田岬の第1の顔は歴史の舞台としての顔である。延元元(1336)年の湊川の合戦の直前、九州から海路京へ攻め上る足利尊氏の和田岬上陸に先立ち、新田義貞方の弓の名手・本間孫四郎重氏が、岬付近の渚から沖の軍船上の尊氏に、見事な弓の腕前を披露し、両軍の兵員を驚かせた。「遠矢浜」の地名はこの故事からつけられた。

◆和田岬灯台  第2の顔は、海上交通難所としての岬の顔である。明治44月、和田岬灯台が竣工した。設計監督はお雇い外国人の英国工兵技監R.H.ブラントンR.H.Brunton)である。木造八角形のこの灯台は、海面から燈心まで15.6 m、光到達距離は16kmであった。明治58月、光到達距離を22.2kmに変更した。明治173月、灯台は鉄製六角形に改築され、英国製のレンズはそのまま使用したが、石油灯からガス灯に替えた。

 

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(24)和田岬(2)

 

 ◆和田岬 かつて、和田岬は、大阪湾を展望する風光明媚な観光名所であった。和田岬には7つの顔があった。①歴史の舞台、②海上交通の難所、③摂海防衛の拠点、④外国人 居留地予定地、⑤コレラ上陸阻止拠点⑥殖産興業拠点、⑦観光名所としての顔である。①歴史舞台、②海上交通難所は、前号で紹介した。

 ◆摂海防衛拠点 安政元(1854)年、ロシア使節プチャーチンが大阪湾に来航し沿岸を震撼させた。文久21862年)、生

 麦事件が起き、英国艦隊が報復のため大阪湾に来襲するとのうわさが広がり、摂海沿岸警備が幕府の喫緊の課題となった。

  幕府は、和田岬、湊川尻、舞子、今津、西宮等に砲台を建設することとした。

  文久31863)年4月、将軍家茂が大阪湾を視察した。小野浜に上陸した家茂に、勝海舟が海軍操練所開設を建言し認められた。424日、勝は海軍操練所の開設責任者に任じられた。元治元(1864)年529日、海軍操練所は第1期の生徒募集広告を出した。和田岬砲台は文久31863)年3月に起工し元治元(1864)年9月に完成した。工事は御影の酒造家・嘉納治郎作が請け負い、石造トーチカ型洋式砲台で、中央に石造円筒型の砲台を置き、周囲に星型の土の胸壁を巡らし砲据え付けが可能であった。砲台は高さ12m、直径17mで、厚さ1.2mの御影石を円筒に積み、側壁には12門の砲門を設け、どの方向にも撃てるようになっていた。内部は木造2階建(一部3階)であった。大正10年砲台は史跡に指定された。

 ◆外国人居留地予定地  安政51858)年、幕府は日米通商航海条約を締結し、神奈川、箱館、長崎、兵庫、新潟の開港と江戸、大阪の開市を取り決めた。安政6年、横浜、箱館、長崎が開港した。

兵庫開港で外国人居留地は和田岬から駒が林の海沿い砂浜が候補地となった。文久元(1861)年、兵庫を視察した英国オールコック公使は、兵庫を開港適地と評価した。孝明天皇が兵庫開港に反対していたため、朝廷は兵庫開港勅許を出さなかった。慶応21225日(1867.1.30)、天皇が突然薨去した。将軍慶喜が朝廷に直接、強硬に勅許を奉請した。慶応31867)年524日、朝廷が勅許を出した。開港予定日まで半年しかない。兵庫は西国街道の宿場町、北前船の拠点として繁栄していたため、住民は変革につながる開港よりも現状維持を望んだ。幕府は神戸村の海岸沿いに外国人居留地を突貫工事で建設することとした。神戸開港である。

 

神戸今昔物語

『豪商神兵 湊の魁』(25)和田岬(3

 ◆コレラ上陸阻止拠点  和田岬の7つの顔のうち、歴史の舞台、海上交通の難所、摂海防衛の拠点、外国人居留地予定地の顔は、すでに紹介した。第5の顔はコレラ上陸阻止拠点である。

  明治10年、神戸にコレラが蔓延した。西南戦争の帰還兵が持ち込んだものである。なぜ、帰還兵からコレラか。この年、中国広州からコレラが長崎経由で侵入して、九州一円に蔓延し兵隊が感染したからである。

 ◆西南戦争  時計を少し巻き戻す。明治1025日、神戸京都間の鉄道開通式典が神戸駅で天皇臨御のもと挙行された。森岡昌純兵庫県権令と外国人代表の米国領事が玉座の天皇に祝辞を述べた。

  式典10日後の215日、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した。天皇は東京還御予定を変更しそのまま京都に滞在することになった。

  政府は、神戸弁天浜の専崎弥五平に兵站本部「運輸局」を置いた。神戸が戦争制圧の兵站基地になった。完成したばかりの鉄道は軍事輸送に使われた。薩摩出身の湊川神社宮司折田年秀は、鉄道で神戸駅に続々と到着する軍隊の勢力を日記に克明に記録した。折田が湊川神社初代宮司になれたのも、西郷隆盛ら政府の要職を占めていた薩摩勢の後押しがあったからである。折田は故郷鹿児島に思いを馳せた。

  戦場は九州であるのに、なぜ神戸に兵站基地なのか。九州へは船でなければ大量の兵員、武器、資材を迅速に輸送できず、海上輸送では神戸が西日本の海上輸送の拠点であったからである。

 ◆コレラ  9月、西郷隆盛の自刃で戦争が終結した。兵隊が船で神戸に復員してきた。922日、兵庫に着いた船で、兵隊7人がコレラに感染していること判明しうち4人が死亡した。

  和田岬に「臨時検疫消毒所」(現神戸検疫所)が設けられ、「避病院」が和田岬と東山に設けられた。

  帰還兵の中にあの津田三蔵もいた。津田は、14年後の明治24年、大津でロシア皇太子を襲撃して日本中を震撼させた。津田も検疫が終わるまで、検疫が終わるまで数日間船内で待機しなければならなかった。津田は、郷里の母に手紙を書いた。達筆の手紙から無事帰還できた喜びが伝わってくる。

◆ラムネ  当時、住民の飲料水は井戸水だった。コレラ流行で井戸水は飲めない。外国人居留地のスコットランド人薬剤師ACシムがラムネを販売した。井戸水は飲めない。人々はラムネに飛びついた。

◆エルトゥールル号  明治23923日、潮岬沖でトルコ軍艦エルトゥールル号が沈没した。乗組員581名が死亡した。生存者69人は神戸に移送され、和田岬消毒所内に設けられた仮病院で治療を受けた。和田岬の浜辺では犠牲者を供養する法要も営まれた。トルコ海軍将兵は、3週間神戸に静養した後、日本の軍艦比叡と金剛に分乗して帰国した。

 

 

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『豪商神兵 湊の魁』(25)和田岬(殖産興業拠点)

 ◆殖産興業拠点  「和田岬7つの顔」のうち、①歴史舞台、②海上交通難所、③摂海防衛拠点、④外国人居留地予定地、⑤コレラ上陸阻止拠点に続く、第6の顔は殖産興業拠点の顔である。

和田岬は、古来神戸を代表する名勝として、「幾多歌人の吟詠に入りし所」であり、「夕つく日 論田の御﨑をこく船の 片帆に引くや武庫の浦風」(平清盛『玉葉集』)「秋風も 絶えてな吹きそ和田の海の 沖なる玉藻わかかつく迄に」(読人不知『夫木集』)と古人は詠んでいる(岡久毀三郎『神戸古今の姿』昭和4年)。

◆三菱造船所  明治政府は富国強兵と殖産興業政策を進めた。和田岬も殖産興業の重要拠点の一つになった。

日清戦争(明治27年)勃発でわが国造船業はにわかに活気づいた。

川崎正蔵が設立した川崎造船所は、明治29年にそれまでの個人経営から株式会社に改組し、松形正義総理の三男幸次郎を社長に迎え、明治30年、新体制の第一船として貨客船「伊豫丸」を建造した。

和田岬の背後地では、明治29年に鐘ケ淵紡績兵庫分工場が操業を開始していた。

三菱合資会社が、明治30年代初めから和田岬の土地買収を開始し、明治3338年にかけて26,800坪を埋め立てた。明治387月、三菱神戸造船所が開業した。

和田岬灯台、和田岬砲台も工場敷地に取り込まれ、海沿いの和田神社も内陸部の現在地への移転を余儀なくされた。明治23年から和田岬で開業していた私設遊園「和楽園」も三菱の敷地に入り廃業した。

三菱の和田岬立地で、それまでの観光拠点としての和田岬は消滅した。三菱造船所は、その後、電気、機械等の多くの関連産業を擁し、神戸市民の雇用と市税収入に貢献し、神戸経済を支える大黒柱の一つなっていく。

◆ドンク  明治38年、三菱造船所出入り業者の藤井元治郎が、造船所で働く長期滞在の外国人技術者向けのパンに着目し、長崎から職人を招いて藤井パンを開業した。現在のドンクである。

◆山陽鉄道和田岬線  明治2378日、山陽鉄道の貨物支線として和田岬線が建設された。目的は、兵庫に陸揚げした鉄道建設資材を、山陽鉄道を兵庫以西へ延伸するための輸送である。山陽鉄道の神戸兵庫間は、明治2291日に運転を開始していた。和田岬線は後に三菱造船所など、和田岬に立地する企業従業員の通勤輸送交通機関になる。

◆観光拠点和田岬の終焉  観光名所としての和田岬は消滅した。

岡久は「上掲書」で次のように回顧している。

「絶勝を誇りし和田の地、一変して工場地と化し」、松林も煤煙のため、年々枯死してしまった。「無残に破壊され、或いは既に煙滅に帰せる史跡を想ふとき、神戸市の発展の異常なるものあるを祝福驚嘆する半面、一種名状すべからざる哀愁の念に耐えざるものあること、人情の然しむ所也」

ちなみに、同書の序文は言語学者の新村出が書いている。

 

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『豪商神兵 湊の魁』(26)観光拠点としての和田岬


◆観光名所和田岬  和田岬7つの顔のうち、歴史舞台、海上交通難所、摂海防衛拠点、外国人居留地予定地、コレラ上陸阻止拠点、殖産興業拠点に続く第7の顔は観光拠点である。


 かつて、和田岬は神戸を代表する観光地であり、勝海舟が建設した砲台、お雇い外国人が作った灯台、松林、茶店があり、付近には数々の歴史の舞台となった和田神社があった。


明治23年、和田岬に私営遊園地「和楽園」が開業した。共済株式会社(社長・竹岡豊太)が経営する有料遊園地で、高楼「眺望閣」から大阪湾の絶景を一望の中に納めることができ、生け簀、魚釣り場、商品陳列場、球戯場、子供遊技場、茶店、休憩所が人気を博した。


明治28年、神戸市は、京都岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会に協賛して「和田岬水族放養場」(水族館)を開設した。博覧会終了後、水族館は和楽園経営会社に払い下げられた。明治30年、ここを拠点として水産博覧会が開催された。明治38年、三菱合資会社神戸造船所が誕生した。明治35年頃、三菱造船所の立地で、和楽園は廃業し水族館は湊川神社境内に移設され営業を続けた。


◆福沢諭吉来神  諭吉も和田岬を訪れた。


明治229月、諭吉は家族、従者ら総勢20名で、横浜から薩摩丸で神戸に到着した。4月に神戸市が誕生し、7月に東海道線が全通した年である。 


 諭吉の次男捨次郎が波止場で一行を出迎えた。捨次郎は、慶応義塾を経て米国の大学で鉄道工学を学び、明治21年から叔父の中上川彦次郎が社長を務める山陽鉄道の技師になり山本通に住んでいた。


 諭吉一行は、海岸通の西村旅館に宿をとった。西村旅館は、明治10年頃に開業し昭和20年に空襲で焼失するまで続いた神戸を代表する名門旅館である。『魁』にも建物のスケッチ付きで掲載されている


◆諭吉の楠社夜間参拝  諭吉は、到着した日の夜、湊川神社を参拝した。一行が横浜から船で神戸に到着したのが午後4時であり、旅で荷を解いて風呂で汗を流し夕食をとった後の外出であるので、神社参拝は午後8時頃であると考えられる。


実は、諭吉には白昼堂々と湊川神社を参詣できない理由があった。諭吉の「楠公権助論」に神社側が強く反発していたためである。楠公権助論とは、諭吉が『学問のすすめ』で展開した議論で、赤穂義士の吉良邸討ち入りを意味がないテロと断じ、丁稚が主人から預かった一両を紛失してふんどしで首を吊るようなものであり、その死によって文明に寄与するものが全くないとして、楠木正成の湊川の合戦での殉死を間接的に揶揄したものである。


その日の宮司折田年秀の日記には諭吉の参詣は記録されていない。


◆諭吉の市内観光  翌日、諭吉は、人力車を連ねて捨次郎宅を訪ね、布引滝、生田神社、湊川神社、湊川堤防、和田神社、和田岬灯台等を見物した。続いて、汽車で明石人丸神社、舞子海岸、須磨寺等にも足を延ばして神戸の観光を満喫した。復路は東海道線の汽車の旅であった。 

                            

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『豪商神兵 湊の魁』(26)観光拠点としての和田岬


 


◆観光名所和田岬  和田岬7つの顔のうち、歴史舞台、海上交通難所、摂海防衛拠点、外国人居留地予定地、コレラ上陸阻止拠点、殖産興業拠点に続く第7の顔は観光拠点である。


 かつて、和田岬は神戸を代表する観光地であり、勝海舟が建設した砲台、お雇い外国人が作った灯台、松林、茶店があり、付近には数々の歴史の舞台となった和田神社があった。


明治23年、和田岬に私営遊園地「和楽園」が開業した。共済株式会社(社長・竹岡豊太)が経営する有料遊園地で、高楼「眺望閣」から大阪湾の絶景を一望の中に納めることができ、生け簀、魚釣り場、商品陳列場、球戯場、子供遊技場、茶店、休憩所が人気を博した。


明治28年、神戸市は、京都岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会に協賛して「和田岬水族放養場」(水族館)を開設した。博覧会終了後、水族館は和楽園経営会社に払い下げられた。明治30年、ここを拠点として水産博覧会が開催された。明治38年、三菱合資会社神戸造船所が誕生した。明治35年頃、三菱造船所の立地で、和楽園は廃業し水族館は湊川神社境内に移設され営業を続けた。


◆福沢諭吉来神  諭吉も和田岬を訪れた。


明治229月、諭吉は家族、従者ら総勢20名で、横浜から薩摩丸で神戸に到着した。4月に神戸市が誕生し、7月に東海道線が全通した年である。 


 諭吉の次男捨次郎が波止場で一行を出迎えた。捨次郎は、慶応義塾を経て米国の大学で鉄道工学を学び、明治21年から叔父の中上川彦次郎が社長を務める山陽鉄道の技師になり山本通に住んでいた。


 諭吉一行は、海岸通の西村旅館に宿をとった。西村旅館は、明治10年頃に開業し昭和20年に空襲で焼失するまで続いた神戸を代表する名門旅館である。『魁』にも建物のスケッチ付きで掲載されている


◆諭吉の楠社夜間参拝  諭吉は、到着した日の夜、湊川神社を参拝した。一行が横浜から船で神戸に到着したのが午後4時であり、旅で荷を解いて風呂で汗を流し夕食をとった後の外出であるので、神社参拝は午後8時頃であると考えられる。


実は、諭吉には白昼堂々と湊川神社を参詣できない理由があった。諭吉の「楠公権助論」に神社側が強く反発していたためである。楠公権助論とは、諭吉が『学問のすすめ』で展開した議論で、赤穂義士の吉良邸討ち入りを意味がないテロと断じ、丁稚が主人から預かった一両を紛失してふんどしで首を吊るようなものであり、その死によって文明に寄与するものが全くないとして、楠木正成の湊川の合戦での殉死を間接的に揶揄したものである。


その日の宮司折田年秀の日記には諭吉の参詣は記録されていない。


◆諭吉の市内観光  翌日、諭吉は、人力車を連ねて捨次郎宅を訪ね、布引滝、生田神社、湊川神社、湊川堤防、和田神社、和田岬灯台等を見物した。続いて、汽車で明石人丸神社、舞子海岸、須磨寺等にも足を延ばして神戸の観光を満喫した。復路は東海道線の汽車の旅であった。

 

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『豪商神兵港の魁』(31)湊川物語(2

 

◆東西交通阻害  明治12年1月、神戸区が発足し、兵庫と神戸が一つの行政区に統合された。けれども、兵庫と神戸の交流は相変わらず少なかった。高さ6㍍超の天井川・湊川が「兵庫神戸間に長城を現出し、交通運輸を拒みし」岡久毀三郎『神戸古今の姿』)であったからである。

湊川堤防の急坂を人力車や荷車で越えることは苦行であった。

そんな状況を見越して、堤防の両側には、車の後押しをして日銭を稼ぐ人たちがいた。人力車が堤防の坂道に差し掛かると、どこからともなく、「倶利伽羅紋々裸形の絵に見る雲助の、声なく風の如くに来たりて俥の後押しをなし、一銭の投与に喜びて去れる見しなるべく。興ふるを忘るれば、時に俥の転覆に遭ひけむ人もあるべし」(上掲書)。

◆名士の往来  明治19113日、兵庫県知事内海忠勝が、兵庫県会議事堂で、神戸初の本格的西洋式夜会「天長節夜会」を開催した。東京の井上馨外務大臣による鹿鳴館舞踏会に呼応して、西日本の国際拠点神戸において王府の夜会を開催することにより、日本が文明国であることを内外に誇示し、不平等条約改正に資することを狙って開催したものである。

夜会には外国領事、商館主ら外国人100名、日本人名士約100名が出席した。神田兵右衛門、藤田積中、武藤山治ら兵庫の名士も出席した。夜会ドレスコードには、燕尾服、ネクタイ、靴、白手袋着用と書かれていた。なぜか、日本人の正装である羽織袴の着用は許されなかった。着慣れない洋風正装で夜会に臨む兵庫の名士たちは、人力車に乗って湊川堤防を越えることになる。こんなとき、湊川堤防名物の人力車の後押しの人たちの世話になる。体面を重んじる名士たちは、気前よくチップを弾むことになる。

◆堤防上で「開港三十年式典」  明治22211(日)午前11時、堤防上で「憲法発布祝賀式」が開催された。明治30528日、「水道起工式」が堤防右岸琴平橋付近で開催された。明治3157日、「神戸開港三十年記念式典」が、堤防右岸の琴平橋付近で行われた。

◆湊川改修  湊川は東西交通の障害であるだけでなく、水害でも住民を悩ませていた。

明治29年の大水害では、堤防が決壊して福原町をはじめ、仲町部一帯が濁流に包まれ、神戸駅前は推進1.5㍍以上となり、死傷者数100人、流失家屋100余戸、倒壊破損700戸、浸水8000戸の大惨事になった(『神戸市史 本編総説))。水害を契機として「湊川改修株式会社」が組織され、湊川付替え工事に着手することになった。湊川を現在の菊水橋の南から西へ曲げ、会下山の下を通水トンネルで抜き、長田へ出て苅藻川に合流させて海へそそぐ流路に付替えた。

明治3011月に起工式、同34年7月に通水式を行った。旧川筋は埋め立てられ、新開地が誕生し、明治44年には湊川公園が一般に開放された。大正108月、湊川陸橋が完成した。

 

神戸今昔物語

『豪商神兵港の魁』(32)湊川物語(神戸開港三十年紀念式典)

 

◆連載18年目  12月1日号で連載18年目に入る。『セルポート』は月3回発行であるので、10日に1回原稿を書くことになる。資料を集め、原稿を書くことは楽しい。「仕事が楽しみなら人生は楽園だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ」(マキシム・ゴーリキ)という言葉ある。仕事とは「からだや頭を使って、働く(やらなければならないことをする)こと」(『新明解国語辞典』)である。

◆「神戸区湊川以西」  『湊の魁』を冒頭から紐解くと、半ばぐらいで、突然、「湊川以西之部」と書いたページが現れ、兵庫の事業者と観光名所の案内が続く。「湊川以東之部」はない。神戸区のうち兵庫だけがは湊川以西と表示されているのである。

◆開港三十年紀念式典  明治3157日、神戸開港三十年式典が、湊川堤防右岸の金刀比羅橋北で挙行された。式典会場周囲には囲いを設けて人の出入りを禁止し、茶屋「松の屋」を紀念会本部事務局とし、金刀比羅橋北側の「品川亭」を「官庁高等官」休憩室、南の「松葉屋」を市外からの来客休憩室とした。

会場正門は、かつて神戸にあった関門を模してに作った黒塗りの開き門とし、門内左側に番所を設けて関守人形2体を置き、番所には鉄砲、槍、さすまたを配列した。場内は「祝開港三十年紀年会」と書いた無数の玉灯と大小の万国旗で装飾し、北側に式壇と奏楽室を設けた。午前10時、紀念会会長鳴滝幸恭が挙式を宣言し式辞を読んだ。

祝辞は、兵庫県知事大森鍾一、フランス領事ルイ・ド・フォサリュウ、清国領事祝辞、神戸市長鳴瀧幸恭、神戸市会議長池永通、来賓等が続いた。最後に紀念会副会長の山本亀太郎の答辞があった。神戸商工会議所会頭の山本は神戸の茶貿易に大きな貢献した実業家であり、諏訪山に顕彰碑がある。

午後1時から、余興として湊川尻でボートレースが開催された。

9日、式典会場で園遊会が開催された。

開港三十年の記念事業として『神戸開港三十年史 乾坤』が刊行された。

◆なぜ明治31年開催か?  鳴瀧は冒頭の式辞で、開港30年式典を明治31年に開催する理由を、「式典はもともと明治30年に開催する予定であったが、明治29年に県内各郡で悲惨な大水害が起きたため、民心に配慮してこの時期にした」と説明した。

◆なぜ湊川堤防で式典か?  『市史』には理由は書いていない。筆者は次のように考える。市庁舎は相生町にあった。式典は通常市庁舎で行われるが、当時、まだ、兵庫と神戸には深刻な対立、葛藤があり、晴れがましい「開港三十年」式典はそのどちらでもなく、中間の景勝地・湊川堤防で開催すれば、双方の出席者が心理的な抵抗がなく参列することができ、兵庫と神戸の融和の象徴となる。実際、明治13年にも、伊藤博文の仲介で、湊川堤防上に行幸施設「偕楽亭」が兵庫と神戸の融和のため建設された前例もある。

 

神戸今昔物語

『豪商神兵港の魁』(30)湊川物語(1

 

◆湊川  湊川もかつての神戸区を代表する観光名所の一つであった。

 湊川の流路は何度も変わっている。『歴史が語る湊川』(神戸新聞総合出版センター、平成14年)は、現在の流路を「新湊川」とし、「明治時代に付け替えられるまで現在の新開地を流れていた流路」を「旧湊川」、「それ以前の流路」を「古湊川」としている。興味がある読者は同書を参照されたい。

 湊川から神戸の歴史を振り返ることもできる。

 「王朝歌人の憧憬対象」「湊川古戦場」「兵庫と神戸の交通障害・湊川堤防」「明治の湊川架橋」「居留地外国人の狩猟場」「湊川神社創建基礎用の土砂採掘場」「行幸施設『偕楽亭』」「明治29年の水害」「流路の変遷」「川床6㍍の天井川」「湊川改修株式会社」「付け替え跡地に歓楽街・新開地」「川崎造船所松方幸次郎社長の新開地馬車通勤」「湊川公園に集結した群衆が鈴木商店焼討」「大楠公六百年祭で、湊川公園に市民募金で『大楠公騎馬像』建立」等である。

◆王朝貴族も憧憬  岡久毀三郎『神戸古今の姿』(昭和4年、「復刻版」昭和52年)によれば、湊川の「古名」は「彌奈刀」と書き、奈良時代には都の人士に広く知られていて、平安時代には京の公卿たちがあこがれる名勝として歌に詠まれた。

  湊川 夜ふねこきいつるおひ風に しかの声さへ せとわたるなり 道因法師(『千載集』)

  みなと川 秋ゆく水の色そこき のこるやまなく しくれふるらし  内大臣(『新勅撰』)

◆湊川架橋  湊川には幕末まで橋は架かっていなかった。

慶応元(1865)年5月、幕府は湊川に仮橋を架けさせた。将軍家茂が長州再征することになったからである。仮橋作業には両岸の相生町と湊町の住民が動員された。慶応267日、第二次長州再征討が開始された。720日家茂は大阪城で死去した。

慶応31868)年127日、神戸は開港した。2日後、「王政復古の大号令」が出され、維新政府が政権を握った。湊川仮橋は撤去され、新たに木橋が架けられ「湊橋」と命名された。

明治6年、「新町橋」が架けられた。明治13年、この橋を石橋に改造して「新橋」と命名した。新橋があった地点は、後に聚楽館が建てられた場所である。以後、湊川には計5本の橋が架けられることになる。

◆兵庫と神戸を分断  橋は架けられたけれども、川床6㍍の天井川である湊川は相変わらず兵庫と神戸を南北に分断していた。「一条の湊川、両港の人情、風俗、嗜好、習慣を異ならしむ」(『神戸開港三十年史 坤』明治31年、「復刻版」昭和41年)

 カットは明治15年刊行の『豪商神兵湊の魁』所収の湊川堤防である。

 手前が「神戸市中」で、湊川に架かる「新橋」を渡った向こうが「兵庫市中」である。新橋の傍らに料理屋「江戸幸支店」がある。左下流に「湊橋」が見える。その先は川口で、沖を行く船が見える。 

  

神戸今昔物語

『豪商神兵港の魁』(31)湊川物語(2

 

◆東西交通阻害  明治12年1月、神戸区が発足し、兵庫と神戸が一つの行政区に統合された。けれども、兵庫と神戸の交流は相変わらず少なかった。高さ6㍍超の天井川・湊川が「兵庫神戸間に長城を現出し、交通運輸を拒みし」岡久毀三郎『神戸古今の姿』)であったからである。

湊川堤防の急坂を人力車や荷車で越えることは苦行であった。

そんな状況を見越して、堤防の両側には、車の後押しをして日銭を稼ぐ人たちがいた。人力車が堤防の坂道に差し掛かると、どこからともなく、「倶利伽羅紋々裸形の絵に見る雲助の、声なく風の如くに来たりて俥の後押しをなし、一銭の投与に喜びて去れる見しなるべく。興ふるを忘るれば、時に俥の転覆に遭ひけむ人もあるべし」(上掲書)。

◆名士の往来  明治19113日、兵庫県知事内海忠勝が、兵庫県会議事堂で、神戸初の本格的西洋式夜会「天長節夜会」を開催した。東京の井上馨外務大臣による鹿鳴館舞踏会に呼応して、西日本の国際拠点神戸において王府の夜会を開催することにより、日本が文明国であることを内外に誇示し、不平等条約改正に資することを狙って開催したものである。

夜会には外国領事、商館主ら外国人100名、日本人名士約100名が出席した。神田兵右衛門、藤田積中、武藤山治ら兵庫の名士も出席した。夜会ドレスコードには、燕尾服、ネクタイ、靴、白手袋着用と書かれていた。なぜか、日本人の正装である羽織袴の着用は許されなかった。着慣れない洋風正装で夜会に臨む兵庫の名士たちは、人力車に乗って湊川堤防を越えることになる。こんなとき、湊川堤防名物の人力車の後押しの人たちの世話になる。体面を重んじる名士たちは、気前よくチップを弾むことになる。

◆堤防上で「開港三十年式典」  明治22211(日)午前11時、堤防上で「憲法発布祝賀式」が開催された。明治30528日、「水道起工式」が堤防右岸琴平橋付近で開催された。明治3157日、「神戸開港三十年記念式典」が、堤防右岸の琴平橋付近で行われた。

◆湊川改修  湊川は東西交通の障害であるだけでなく、水害でも住民を悩ませていた。

明治29年の大水害では、堤防が決壊して福原町をはじめ、仲町部一帯が濁流に包まれ、神戸駅前は推進1.5㍍以上となり、死傷者数100人、流失家屋100余戸、倒壊破損700戸、浸水8000戸の大惨事になった(『神戸市史 本編総説))。水害を契機として「湊川改修株式会社」が組織され、湊川付替え工事に着手することになった。湊川を現在の菊水橋の南から西へ曲げ、会下山の下を通水トンネルで抜き、長田へ出て苅藻川に合流させて海へそそぐ流路に付替えた。

明治3011月に起工式、同34年7月に通水式を行った。旧川筋は埋め立てられ、新開地が誕生し、明治44年には湊川公園が一般に開放された。大正108月、湊川陸橋が完成した。

 

 神戸今昔物語

『豪商神兵港の魁』(32)湊川物語(神戸開港三十年紀念式典)

 

◆連載18年目  12月1日号で連載18年目に入る。『セルポート』は月3回発行であるので、10日に1回原稿を書くことになる。資料を集め、原稿を書くことは楽しい。「仕事が楽しみなら人生は楽園だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ」(マキシム・ゴーリキ)という言葉ある。仕事とは「からだや頭を使って、働く(やらなければならないことをする)こと」(『新明解国語辞典』)である。

◆「神戸区湊川以西」  『湊の魁』を冒頭から紐解くと、半ばぐらいで、突然、「湊川以西之部」と書いたページが現れ、兵庫の事業者と観光名所の案内が続く。「湊川以東之部」はない。神戸区のうち兵庫だけがは湊川以西と表示されているのである。

◆開港三十年紀念式典  明治3157日、神戸開港三十年式典が、湊川堤防右岸の金刀比羅橋北で挙行された。式典会場周囲には囲いを設けて人の出入りを禁止し、茶屋「松の屋」を紀念会本部事務局とし、金刀比羅橋北側の「品川亭」を「官庁高等官」休憩室、南の「松葉屋」を市外からの来客休憩室とした。

会場正門は、かつて神戸にあった関門を模してに作った黒塗りの開き門とし、門内左側に番所を設けて関守人形2体を置き、番所には鉄砲、槍、さすまたを配列した。場内は「祝開港三十年紀年会」と書いた無数の玉灯と大小の万国旗で装飾し、北側に式壇と奏楽室を設けた。午前10時、紀念会会長鳴滝幸恭が挙式を宣言し式辞を読んだ。

祝辞は、兵庫県知事大森鍾一、フランス領事ルイ・ド・フォサリュウ、清国領事祝辞、神戸市長鳴瀧幸恭、神戸市会議長池永通、来賓等が続いた。最後に紀念会副会長の山本亀太郎の答辞があった。神戸商工会議所会頭の山本は神戸の茶貿易に大きな貢献した実業家であり、諏訪山に顕彰碑がある。

午後1時から、余興として湊川尻でボートレースが開催された。

9日、式典会場で園遊会が開催された。

開港三十年の記念事業として『神戸開港三十年史 乾坤』が刊行された。

◆なぜ明治31年開催か?  鳴瀧は冒頭の式辞で、開港30年式典を明治31年に開催する理由を、「式典はもともと明治30年に開催する予定であったが、明治29年に県内各郡で悲惨な大水害が起きたため、民心に配慮してこの時期にした」と説明した。

◆なぜ湊川堤防で式典か?  『市史』には理由は書いていない。筆者は次のように考える。市庁舎は相生町にあった。式典は通常市庁舎で行われるが、当時、まだ、兵庫と神戸には深刻な対立、葛藤があり、晴れがましい「開港三十年」式典はそのどちらでもなく、中間の景勝地・湊川堤防で開催すれば、双方の出席者が心理的な抵抗がなく参列することができ、兵庫と神戸の融和の象徴となる。実際、明治13年にも、伊藤博文の仲介で、湊川堤防上に行幸施設「偕楽亭」が兵庫と神戸の融和のため建設された前例もある。

 

神戸今昔物語(第560号)

『豪商神兵港の魁』(33)湊川物語(4)堤防での狩猟

 

◆狩猟場  明治初め、湊川堤防は「千古を語る老松古樹」が茂り、現在の湊川公園以北は、「陰惨として昼尚を暗く頑童も近くを惧れし所」であった(岡久毀三郎『神戸古今の姿』)。湊川堤防では外国人が狩猟を楽しんでいた。カットをご覧いただきたい。銃を持った2人の外国人と従者らしい日本人が、獲物を並べて座っている。「ジャパンクロニクル」(Japan Chronicle)所蔵の写真である。

◆ジャパンクロニクル  ジャパンクロニクの前身は、明治24年に神戸に創刊された「神戸クロニクル」である。神戸クロニクルは、後に日本最大の発行部数を誇る英字新聞に成長する。神戸クロニクルは明治33年、ジャパンクロニクルと改称した。

 明治2711月、ラフカディオ・ハーンが神戸クロニクルの記者になった。ハーンは、神戸が好きではなかった。開港した神戸が外国のまねをする軽薄な街になりつつあることに我慢できなかったのである。ハーンは日本の伝統的な文化を伝承している松江に魅せられていた。ハーンが松江に住んだ期間は13か月である。神戸には18か月も住んでいる。日本に帰化したのも神戸である。松江では誰でもハーンが松江に住んでいたことを知っている。けれども、神戸では、ハーンが神戸に住んでいたことを知っている人はさほど多くない。 

◆湊川砲台  安政元(1854)年、天保山沖にロシア艦ディアナ号が来航し、人々を震撼させた。幕府は摂海防衛のため、安治川尻、木津川尻と、湊川尻に砲台を建設した。この砲台は土砂を積み上げた上に作られたもので、とても実用に耐えられるものではなかった。元治元(1864)年、勝海舟の建議でその指揮のもと新たに砲台が建設された。新砲台は、先にあった砲台の場所に1300坪の土地を造成し、高さ13㍍、上部直径19㍍の石造円筒型灯台が建設された。砲台は和田岬砲台と同形であったが、和田岬砲台のように五稜形の外郭砲台は建設されなかった。

 明治7年、神戸に砲兵屯営が建設された。場所は、現在の神戸大学病院の敷地である。屯営建設に伴い、湊川砲台付近に兵舎が建設され、砲台付近は明治10年に屯営が廃止されるまで、射撃練習場になっていた(岡久、上掲書)。

◆祝砲  湊川砲台は天皇が神戸に到着されたとき祝砲を放っている。

明治1025日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと神戸駅で開催された。これに先立ち、128日、天皇のお召船横浜丸が神戸に到着したとき、湊川砲台が放った祝砲を、湊川神社宮司折田年秀は、「午前六時三十分、於湊川尻打揚ケ三発、追々報号」と記録している(『折田年秀日記』)、

 明治1888日、天皇が山陽道行幸を終え、馬車で行在所・専崎弥五平邸に到着されたとき、停泊中軍艦と湊川砲台が祝砲を放った(『兵庫県明治天皇聖蹟』)。

明治25年、砲台は解体された。 

 

神戸今昔物語(第561号)

『豪商神兵港の魁』(34)湊川物語(5)堤防上で憲法発布祝賀式

 

◆憲法発布祝賀会  明治22211日、大日本帝国憲法(「明治憲法」)が発布された。

 この日、神戸で憲法発布式典が施行された。

東京における式典参加に参加するため上京していた内海知事に代わり、代理勅使として、兵庫県木場貞長書記官が長田神社に、尾越悌輔書記官が生田神社と湊川神社に参拝し「奉告」した。「書記官」は現在の副知事である。

神戸商法会議所の裏庭に「官民有志」350人が集合して祝賀式を挙げ祝砲101発を放った。続いて、全員揃って湊川堤防に徒歩で行き、午前11時、あらかじめ用意していた堤防上5か所の仮設施設で祝杯を挙げた。その後、木場書記官が知事代理として、県会議員、会社役員、銀行員等の市内有力者を、料亭自由亭に招いて宴会を開いた。

市内各所で行事が開かれた。兵庫仲町部では、篤志者の寄付金250円を原資として貧しい人たちに切符を配り、福祉施設「明道協会」で切符を1枚10銭で引き替えた。学校では運動会を開催した(『神戸市史総説』)。

◆神戸商法会議所   「神戸商法会議所」のルーツは、明治11年創設の「兵庫商業会議所」である。兵庫商業会議所は、もともと兵庫だけの会議所として設立された。設立の翌年、区制が実施され「神戸区」が発足して兵庫と神戸が一つの行政区になり、兵庫商業会議所は「神戸区商法会議所」と改称し、兵庫・神戸の事業者を会員とすることとした。けれども、あいかわらず兵庫と神戸の仲が悪かったため、活動は徐々に衰退していき、ついに「廃絶」に追い込まれた。

明治19年になって、内海兵庫県知事の主導で会議所再興の機運が高まり、明治20年に「神戸商法会議所」が発足した。明治23年9月に「商業会議所条例」発布に伴い「神戸商法会議所」は「神戸商業会議所」と改称した。

神戸商業会議所は、もと三井組銀行の建物を弁天浜から移築し改修したものである。「会議所の庭園もひろびろと美しく、当時あらゆる階層の人々の社交場として神戸名物の一つに数えられていた」(荒尾親成『写真集 明治大正昭和 神戸』)。明治224月、東隣に市役所が開庁した。

◆湊川堤防の意味  開港場神戸と兵庫は、間を南北に流れる天井川湊川が交流を遮っていたため、交流はほとんどなかった。明治12年、兵庫と神戸に坂本村を加えて「神戸区」が発足した。同じ行政区になったとはいえ、兵庫と神戸は相変わらず仲が悪かった。伝統ある兵庫の名士たちは、開港した神戸がめざましい発展を遂げつつあることに嫉妬していた。同時に、神戸の商人を「成り上がり」と軽蔑していた(『神戸開港三十年史』)。憲法発布式典が湊川堤防で開催されたことは、両地域の融和という意味でも大きな意義があった。もし、神戸か兵庫のどちらかだけで開催したら、他の地域が反発することになる。湊川は、兵庫と神戸を隔離する自然の要害であるととともに、兵庫と神戸の融和の象徴でもあった。

神戸今昔物語(第562号)

『豪商神兵港の魁』(35)湊川物語(6)神戸開港

 

◆神戸開港は2度の偶然から  神戸は開港150年を迎えた。

日米修好通商条約の協議で、米国ハリス総領事が幕府に提示した「開港・開市」要望地には、兵庫も神戸も挙がっていない。ハリスは京都と大坂の開港を強く希望した。幕府は、天皇の居所である京都と、京都の玄関口大阪の開港を拒否し、代わりに堺を提示した。

ハリスは「外国人居留地」から半径10里(50㌔)以内を、外国人が自由に動ける「外国人遊歩区域」にする提案をした。堺が開港したら、遊歩区域内に仁徳天皇陵、古都奈良等が入ることになる。堺は開港できない。幕府は堺の代わりに兵庫を提示した。居留地は和田岬から妙法寺川尻までの海岸沿いである。

幕末、兵庫は、「兵庫津」と呼ばれ、西国街道の宿場町、北前船の拠点として殷賑を極めていた。住民は開港よりも繁栄している現状維持を望んだ。湊川を隔て東の神戸村の海沿いに、広大な砂浜と畑地があった。幕府は居留地適地と判断し神戸村を開港することとした。

1868年1月1日、神戸が開港した。

もし偶然が重なっていなかったたら、後の国際都市神戸はない。

◆開港が国際都市神戸の原点  神戸の居留地に、各国は領事館を開設し、欧米人貿易商が商館を構えた。中国人も数多く神戸に住み着いた。日本人も各地から神戸に移住してきた。神戸では「隣人は外国人」であった。神戸の人は外国人の生活文化を抵抗なく吸収した。

開港翌年、スエズ運河が開通し、東西の物流、人流が盛んになり、神戸は我が国における外国文化の受け入れ窓口となった。

もし開港していなかったら、神戸は瀬戸内によくあるような、山と海に挟まれた風光明媚な街であった。開港が神戸を「国際都市」に運命づけた。

2次大戦後も、神戸は国際都市としての輝きを放っていた。神戸港は世界中の港と航路で結ばれ、外国領事館、外国銀行、外国企業、外国人向け病院、外国人学校、宗教施設、外国倶楽部、KR&AC、外国人墓地等が神戸に立地した。神戸港は世界トップクラスのコンテナ取扱量を誇った。

阪神淡路大震災は神戸に壊滅的な被害を与えた。領事館は市外に流出し、港湾はアジア拠点港の地位を完全に喪失した。空港も国際空港ではない。もはや神戸は国際都市ではない。国際都市でない神戸はただの「地方県庁所在都市」にすぎない。

◆国際都市神戸のDNAを神戸の都市アイデンティティに  神戸にはかつての国際都市のDNAが残っている。神戸は、山と海に恵まれ、美しい自然環境の中に、かつての国際都市「神話(レジェント)」と「遺産(レガシー)」が根付いている。これは他都市では絶対に真似ができない神戸だけの財産である。国際都市のDNAを積極的に活用し、神戸の国際都市としてのアイデンティティを再構築すれば、都市間競争時代の都市セールスにきわめて有効なツールになる。

開港150年の今年、あらためて、神戸の今後の方向を考えてみたい。

 

神戸今昔物語(第563号)

『豪商神兵港の魁』(36)湊川物語(7)神戸開港30年式

 

◆湊川堤防で式典挙行  明治311898)年5月7日、「神戸開港三十年記念式典」が挙行された。会場は湊川西堤防の「金刀比羅橋」北手である。実施主体「神戸開港三十年紀念会の会長は鳴滝幸恭神戸市長である。

鳴瀧会長は、式典をこの年に開催する理由を「当初、明治301897)年に式典を実施する予定で市内有志の発起で紀念会を立ち上げたが、県内郡部での「悲惨ナル水害」の被害に配慮し式典を1年遅らせた」と説明した(『神戸市史本編各説』大正14年)。

◆会場の様子  会場周辺には柵を設けて人々の出入りを禁じ、会場正面には、開港直後の神戸に設けられていた「関門」を模した「黒塗り開き門」を建てた。関門とは、神戸開港に際し、幕府が密輸を防止するために設置した検問所で、西国街道沿いの「西関門」は現在の元町通入り口、「東関門」は西国街道と生田筋の交差点に設けられていた。現在も、旧三越百貨店の建物北壁面に「関門跡碑」が埋め込まれている。正面を入り左側には関門にちなんで「関守人形」2体、番所には鉄砲、槍、刺股を飾った。

会場正面の掛茶屋「松の家」が紀念会事務所、東堤防の金刀比羅橋付近の「品川亭」は官公庁高等官の休憩所、南側の「松葉屋」は市外来賓の休憩所とした。場内には「祝開港三十年紀念会」と記した「無数の玉燈」と大小の万国旗を飾り、会場の一番北側に「式壇と奏楽室」を設けた。

◆式次第   定刻午前10時、号砲3発を合図に「数千名の参会者」が着席した。

 会長鳴滝が開会を宣言し式辞を述べ、式典を開催する理由を次のように説明した。

開港以来ここまでの30年は「自然的発達の時代」であった。今や、陸に「飲料水道敷設」、海に「港湾ヲ修築シテ船舶ノ安全ト物資集散」を図り、開港場にふさわしい諸施設の整備を進め、神戸を「東洋ノ一大貿易港」とする時代である。すなわち、「天然的ト人為的ト交代スル時期」がたまたま開港30年に合致したので、この式典を挙げることとした。

 来賓の兵庫県知事大森鐘一の祝辞に続いて、フランス領事ルイ・ド・フォサリュウ、清国領事が祝辞を述べた。

続いて、神戸市長鳴瀧幸恭、市会議長池永通、紀念会役員が祝辞を述べ、副会長の山本亀太郎が答辞で締めくくった。山本亀太郎は、生涯を明治神戸の茶輸出にささげた人物で、6代目神戸商工会議所会頭である。諏訪山公園に山本の顕彰碑がある。

最後に、鳴瀧の発声で天皇皇后両陛下万歳を三唱し、号砲1発とともに式典を終えた。

午後1時から、余興として湊川尻でボートレースを開催し、翌々日の9日には式場跡で園遊会を開いた。

◆記念事業  紀念会は開港30年の記念事業として『神戸開港三十年史 乾坤』を刊行した。執筆者は「神戸市楠町六丁目二百八十一番邸 栃木県士族 村田誠治」である。昭和41年に「復刻版」が中外書房から刊行されている。

神戸今昔物語(第564号)

『豪商神兵港の魁』(37)諏訪山物語(1

 

 ◆神戸英和女学校  「神戸又新日報」(明治1927日号)に「英和女学校の移転」と題し、次のような記事がある。

諏訪山下の神戸英和女学校(後、神戸女学院)は、創立以来10数年が経過し、現在、移転を検討している。もともと、閑静な土地を求めてここに学校を設立したが、その後、周囲が開け、諏訪山山麓に料理屋が建ち並び、学校裏手にまで料亭が迫ってきた。昨今は「絲竹管弦、絶えず同校に聞こゆる」ことになり「生徒の勉学上に関係を及ぼすこと少なからず」。地方出身の寄宿生も多いという同校は、女子の「教育に適当すべき閑静なる土地」を探し「速やかに移転せん」としている。

神戸英和女学校は、明治8年に、米国人女性宣教師ダッドレーとタルカットが、三田藩最後の藩主九鬼隆義の支援を得て、現山本通4丁目に学校を開いた。現在、その場所には神港高校がある。明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称し、昭和8年、岡田山へ移転した。岡田山移転に先立ち、英和女学校は明石大蔵谷の丘陵地に広大な土地を購入し、米国人建築家に委託して立派なキャンパス計画が出来上がっていた。けれども、結局、明石大蔵谷キャンパスは実現しなかった。

◆諏訪山  諏訪山はもともと中宮、花隈、宇治野、北野、二つ茶屋村の共有地であった。明治の初め、英国人が諏訪山の麓で鉱泉を発見した。1871(明治4)年頃、小野組が諏訪山を購入した。小野組はこのとき兵庫県の公金取扱機関であった。その後、小野組が破産したため諏訪山は官有地となった。

明治6年、兵庫県が諏訪神社境内3000坪を公園に指定した。

県官関戸由義は、花隈で料亭常盤花壇を経営していた前田又吉に諏訪山の土地を貸与した。又吉は、九鬼隆義から資金援助を受け、明治6年に温泉を開き、常盤花壇を諏訪山に移した。

九鬼が総裁を務める志摩三商会は、副社長小寺泰次郎の天才的手腕で、加納宗七が造成した旧生田川付替え跡地の土地取引等により巨利を得ていたので、開発資金を貸し付ける余裕は十分あった。

「神戸の料亭王」と呼ばれた又吉は、後に京都に進出し常盤ホテルを建設する。常盤ホテルは、明治245月に、ロシア帝国ニコライ皇太子の宿舎となる。ニコライは、59日大艦隊を率いて神戸に到着し、諏訪山金星台から神戸の眺望を楽しんだ。その後、鉄道で京都へ行き、12日、人力車を連ねて大津へ行き、琵琶湖遊覧を終えて、京都への帰途、警備の警官にサーベルで切り付けられ額に負傷した。日本政府を震撼させた大津事件である。

◆料亭群  カットは、西から常盤楼、福常盤、西川亭、山本、吉田、藤見亭、常盤中店、平谷、藤井亭、春海楼、青梅楼、中村亭、月の家、自在庵、長生亭、常盤東店である。山全体に料亭が建ち並んでいる。